絵本に見る、洗練される野生。

先日、子どもの絵本を探しに本屋へ行きました。最近は絵本をよく物色するようになったんです。なんせすっかり父親ぶっているもので。

独身のときにはあまり目がいかないコーナですが、こうしてみるとなかなか面白い。子どものためというよりもいつの間にか自分が夢中になってしまうくらいにさまざまな絵本があります。
そして、何冊か選んだ後に自分が読む本もちょっと探してみようかと、大人向けの書籍にも目が向きました。

 

そこでふと気づきます。

 

子ども用の絵本の大半のは、表紙が主題の絵とタイトルだけで成立しているのに対して、大人向けの本のほとんどは、表紙にも帯にもとにかく文字要素が溢れています。内容の要約や売り文句がこれでもかと詰め込まれている。ものによっては背景のイラストや写真がなんなのかすら判別できないものもある。

 

これってもしかして、作り手も買い手も、記号化された「言葉による説明」に頼りすぎて文字以外の情報から内容をイメージさせたり、感じ取る力を失いかけているんじゃないだろうか。

 

輸入海外映画の日本版ポスターを手がけていた知人は、「いいデザインより、分かりやすく役者の顔を敷き詰めろ」というオーダーが現場を支配していると言っていました。
なによりも、情報の伝達効率が優先される。「しっかりと伝わるもの」という言わばサービス精神が、見る側(ユーザー)の想像力をも奪っているのではと。

 

その彼と話していた時に、今、市場が全体的にこういった傾向になっているのはデザインとしては進化なのか退化なのかどっちだと思う?っていう話をしたんですが、その彼曰く、「デザイン的には間違いなく退化だと思う。引き算である絵本的なシンプルなアプローチの方が圧倒的に難しい、画面を構成する要素を減らせば減らすほど、残された文字、要素、そして余白の質が如実に曝け出され、逃げ場が失われてしまう」

 

そしてこれが書籍の場合でも、昔の本はとてもシンプルだったと思うし、外国の本なんかは基本的には今でも説明要素は少ないですね。脳に記号で処理させるというよりは視覚で感じさせるといったところなんだと思います。

 

だから絵本を選んでいる時間は、そうした感覚的な判断を取り戻すような楽しさがあったのです。

ここで、ベタにピカソのあの名言を引用しちゃいますが、

「この歳になって、やっと子どもらしい絵が描けるようになった」

私も54歳になった今だからこそ、子どもが持つ「余計な解釈を挟まない純粋な反応」が、どれほど高度で、かつ到達困難な「洗練」であるかが痛いほどわかります。

 

こどもに訴えかける表現がシンプルなのは、決してそれが幼稚だからではなく、より本質的な要素が洗練されて詰まっているからに他なりません。

 

マーケティングの論理では「文字=武器」ですが、こどもの世界では「文字=不純物」にもなり得る。

 

文字という記号に頼らずに、視覚という野生で勝負することは退化ではなく、純度の高い進化だと信じています。

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なんというかやっぱりこう、感じたいじゃないですか。脳というか体でね。