オリーブの木と人間の野生

最近、オリーブの木について調べることがあり、いくつかの記事を読んでいました。


ヨーロッパでは古くから産業の要であり、神聖な木として人々に扱われてきたオリーブは、数百〜千年以上のあいだ実をつけ続けるような、非常に長寿の木なんだそうです。

 

昔のオリーブ農家は一本一本の木を大切に代々受け継いできたそうですが、今は二十五年ほど育てたあたりで入れ替えてしまうといいます。現代の進んだ集約的な高密度栽培技術のもとで、安定した環境と計算された施肥により、いち早く大きくさせ、効率的に実をならせて収穫することが最優先されているらしいのです。

 

日本では古くから桃栗三年柿八年と言われていますが、この場合は柿を一年で実をつけさせようというやつですね。

 

現代の商業的なオリーブ栽培は、均一な品質と効率的な収穫のために、若く管理しやすい木を使用することが主流です。

樹齢を重ねたオリーブの古木は、幹が太く複雑になり、機械での収穫が困難になったり、生産効率が低くなったりするらしく、ある程度古くなると畑での経済的な役割を終えてしまうことが多いとのこと。その役目を終えたオリーブが、園芸目的で日本に輸入されているのをよく目にしますね。あれらの多くは、まだまだ実はつけるけど、管理や収穫の効率化からは外れた個体たちなんだそうです。

 

そして、若木のうちにふんだんに栄養を与えられ、効率化された環境で育てられた木というのはあまり丈夫にならないという傾向があるらしく、全体的に老いが早く寿命が短いらしい。そもそも野生の木というのはそんなにふんだんに栄養を得て生きているわけではなくて、少ない栄養をゆっくりと少しずつ形にしていくんですよね。それだからこそ、昔の栽培オリーブは数百年ものあいだ、長く生き、丈夫に実をつけ続けることができたというわけらしいのです。

 

それを読んだとき、ふと自分を含めた人間のことを思いました。
私たちも、どこか今の効率化された畑の中で生かされているような気がしてならない。

 

ダリアなどの園芸品種でいうと、人間の選択淘汰によって華美さを追い求めすぎた結果、美しい花びらを何枚も重ねた挙句、その重量を自分の茎では支えられなくなったりもしています。

 

我が家でも何鉢か育てていましたが、綺麗なのは素晴らしいけども、よくよく考えると自立できないっていうのはちょっと恐ろしくもある。
人の手が加わるほど、見た目の華やかさと引き換えに、内側にあるはずの生きる強さを削ってしまった。

 

人もたしかに寿命そのものは延びましたし、昔なら死を覚悟したような病気も、いまは多くが治るようになってきている。
けれど、数字の上では長生きになっても、「生きている実感」や「時間の厚み」のようなものが失われて、どこか薄く、平坦になってしまったように思うのです。

 

気づけば私たちを取り巻くのは、効率やリスク回避を最優先にし、危険を最大限排除した、あまりにも整いすぎた環境です。そして、社会全体がそこに向かって突き進んでいるように感じます。

 

社会は、成果をすぐに求め、失敗や停滞をまるで許さぬようになってきました。それは、私たちが本来持つべき、時間をかけて成熟し、困難を乗り越えることで得られる「内側にある野生の強さ」を育む機会を問答無用で奪っているような気がするんですよね。

 

たとえばわたしの祖父母の世代は、文字通り「時間をかけて成熟し、困難を乗り越える」ことの連続を生きていました。うちのばあちゃんは恐ろしく強かった。一人の生き物として精神力も体力もまるで格が違った。うちの母でも強いなって思いますが、そんなもんじゃない。芯がぶっとい感じするんですよ。

その芯の強さ、生き抜く力こそが、いまの私たちに最も欠けている「野生」なんじゃないかと。

 

効率よく、早く、確実に花を咲かせて多くの実をつけるため、絶えず何かに追われ、支えられ、管理されている感じ。便利さや安全の裏で、「時間をかけて根を張る」という行為を、どこかで手放してしまったのかもしれないなって思ったりします。

 

今ってどうなんでしょうね、板前の修行を何年も続けるとか、そういう「時間をかけて育つ」価値観っていうのはまだ残っているんでしょうか。

 

車で見る景色と、歩いて見る景色では、同じ場所を通っていてもまったく変わって見えるように、スピードを得たことと引き換えに、受け取る情報の濃度は薄まっている。確かにスピードを得れば、真っ先に先の景色は見れるけれど、そんなに急ぐ必要があったんだろうか。

 

一歳をちょっとすぎた私の息子は最近、移動手段がハイハイからつかまり立ち、そしてふらふらしながらも五、六歩程度でしょうか、立って歩くようになってきました。とはいえ、畳だったり、フローリングなどのごくごく平坦な場所でしか立っておりませんし、まだまだ拙い感じです。

 

そんな中、ある晴れた日の昼下がり、近所の公園に出て、土の上を裸足で歩かせてみました。
そこはよく整備はされていますが、大小種々雑多な植物が生えています。小枝やどんぐりなども散らばっていて、それらの感触をほぼ経験していない息子は、その緩やかながらも起伏のある不安定な地面の感触に戸惑いながら、よたよたと少し歩いては手をつき、少し歩いては転ぶを何度も繰り返します。

 

ときには顔から倒れ込むのですが、そこでも自力で立ち上がります。もちろん危なそうなときは私も手を伸ばしますが、できるだけ彼自身の力で立ち上がるのを見守るようにしています。
立ち上がるたびに、身体だけでなく、心も少しずつ強くなっていくかのように見えるのです。

 

そうしていると、いつのまにか膝を上手く使ったり手でバランスをとったりして、まだまだ不器用ながらも、なんとか転ばないように細かな凹凸を吸収するようになっていました。


そして、なんとなく感覚を掴んだかのように見える息子は、時折地面に手をつきながらも、次第にゆるやかな下り坂に向かって行きます。

 

息子は下り坂と予測不可能な凸凹という、彼の人生では最大ともいえる難易度の高い場所を進み始めました。

 

ゆるやかとはいえ、ふらふらと転びそうではあったので注意して見ていたのですが、息子は下り勾配による若干の勢いに合わせて、五、六歩と言わずにいきなり十数歩以上転ぶことなく進むことができたのです。

 

正確な歩数は数えていませんが、そこからはしばらく手を地面につかずに辺りを歩き回るくらい飛躍的に足の運びが上手になり、歩いてはいろいろな草やどんぐりを手に取って遊んでいました。


その姿を見ていると、予測可能な平らな床の上では決して得られないであろう草木や土の作り出した自然の形を直接受けることによる力が、少しずつ身体の奥に宿っていくように思えました。

 

家の中とはまったく違う体の動きをするんです。バランスの取り方が。

それまで知らなかった、歩くということの楽しみを噛み締めているかのように見えます。

 

なんかそれはね、生きているっていう感じなんですよ。まるで身体の芯にあるものが、生きものとして目を覚ましていくようなんです。体全体を使って、裸足で地面をガシッと掴んで、土や草木の肌を感じ、大地に馴染んでいくような。

 

もちろん、このような勾配、凹凸の場所ではなく、室内であっても、自然と歩数は多くなっていったと思いますし、それで困ることはないのでしょうが、この、足の指から全体を使って大地をぐっと掴んだっていう感じが、そばで見ていて私の方もなにか湧き上がるような気持ちになったことは確かです。

 

私は息子のその姿を見て感じました。やはり我々人間は動物なんだということ。

 

そのことを忘れ、捨て去ってしまうと、いつか我々は、効率よく実をつける為に管理栽培され、本来の強さを失い短命となったオリーブのように、見栄えばかりを強いられ、自らの華美な姿を支えきれず、立つことさえできなくなったダリアのように、そよ風ひとつに吹かれて倒れてしまうような、整いすぎた華奢な生き物として変化し続けていってしまうのではないか。

 

人間がどこに向かっていくのかは、常に若い世代の経験値に委ねられます。

いくら懐かしんでみても、過去の醇厚な時間には戻れません。

 

世界が人工的な秩序の下で整っていこうとする中で、息子にはいささかの野生を残したまま、少しの風では倒れないように、その根をしっかりと地中の土を掴み、食い込ませてやりたいなと思うのです。

その、土を掴み、大地に感覚を張り巡らせる力。それこそが、効率の時代に決して手放してはならない、「生き物としての根」なのだと信じています。