風蘭の花が咲き始めています。
風蘭は、夕方にだけ香りを漂わせます。
どうやら、それは夕暮れに動き出す蛾を呼び寄せるためなのだそうです。
その自然の仕組みが、私には、夏の一日の終わりを知らせる合図のように思えていました。
その甘く、どこか懐かしい香りは、夏の夕暮れの記憶を呼び起こします。
母方の田舎でも、園芸好きな叔父が、庭先の東面に、たくさんの風蘭の鉢を並べていました。
夏休みに母方の実家へ帰省すると、私はひとりで朝早くに出かけて行き、田んぼでカエルやヘビを、小川ではメダカやザリガニなどを獲って遊んでいました。カメなどは珍しくてなかなか見つけることがなかったため、捕まえると大はしゃぎで持ち帰っていました。
お昼頃に一度家へ戻ってごはんを食べると、またすぐに外へ飛び出していき、日が暮れるまで遊び続けました。
そして日が暮れる頃に一旦家に戻ると、夜は懐中電灯と虫籠を持って裏の雑木林へ出向いて、今度はクワガタやカブトムシを探しに行きます。
この「一旦戻る」時間、私は縁側に腰をかけ、祖母が出してくれるスイカや冷たいうどんをすすりながら、ぽつぽつと聞こえ始めたヒグラシの鳴き声とともに、風に運ばれてくる風蘭の香りを、子どもの私はぼんやりと嗅いでいました。
その香りを発しているのが何の花かなんて、当時は知りませんでしたが、
軒先を抜ける風が、汗ばんだ肌をそっと冷やしながら運んできたその匂いは、
あの時間帯にだけほのかに漂い、五十年近く経った今も、私の感覚の断片におぼろげに立ち上がってきます。
あの頃はただ、その日沸き起こる興味の方向に向かい、それを全身で味わっていました。
そんな日々が、私のなかにやさしい光景として、今も残っています。
今年、我が家の風蘭は、一株だけいつもより早めに咲きはじめました。
夕方の風が部屋を抜けるたびに、あの夏の時間が、すこしずつ私の記憶を掠めていきます。
もう、あの匂いのなかで遊び疲れて眠ることはありませんし、
あの家も、あの林も、すでに形を変えてしまいました。
陽の光に肌が焼けるのを恐れず、夢中で走り回ることができていたあの頃と違って、
今の夏は、日差しが痛いほど強く、空気が重く感じられます。
あの頃、道ばたでは誰とでもあいさつを交わしていました。
すれ違うお年寄りが、虫籠を携えた子どもの私にあたたかく声をかけてくれました。
今とは違う景色の中で、人が人と、人と自然とが繋がっていました。
それが私の心に染み付いている原風景です。
今、私のそばで咲いている風蘭は、あの頃と同じ香りを放っています。
その香りは、あの日、農作業を終えた祖母の手が私に触れたときの、
ひんやりとしたやさしさを運んできてくれるのです。
先日、私の息子を抱く母の手が、あの頃の祖母の手によく似ていることに気がつきました。
若かった母の笑顔と、祖母の手。
そして今、息子を見つめる妻のやわらかい笑顔と、息子を抱く母の手。
風蘭の香りが鼻先をかすめるたびに、やさしい面影が私の記憶のなかで少しずつ重なっていきます。
今年は、ひときわ暑く感じられます。
それもそのはずで、今年の6月は観測史上最高気温を記録したそうです。
この暑さは、「異常」ではなく「日常」になっていくと言われています。
息子が虫取りをするような年齢になる頃には、もう夏が来ることを楽しめなくなっているかもしれません。
そんな中、この香りが運んでくれる、かつて日本に存在した豊かな情緒を、
私はどれだけ息子に伝えられるでしょうか。