何かを記録しようとする行為は、ともすると「その瞬間を生きること」から、意識を引き剥がしてしまうことがあります。
意識下で写真を撮ろうとすると、“何かを残すこと”に気を取られすぎてしまうのです。そのとき、ふだんなら感じ取れるはずの音や匂い、肌に触れる空気の質感までもが、気づくと意識の外へ押し出されてしまいます。「見ている」と思っていても、ファインダーを覗くことで、かえって世界から遠ざかってしまう。
このことは、“写真”という行為をある程度思考した経験のある方には、ご理解いただけるのではないでしょうか。
「カメラを持って歩くと、自分の目をなくしてしまう。あとに残すために、現在の瞬間を犠牲にしてしまう。」
これは三島由紀夫の言葉ですが、この言葉の背景には、彼が「撮る側」ではなく「撮られる側」であり続けたことが、大きく関係しているのではないかと思います。
カメラの前で、己の身体や表情を晒し続けた彼は、写されることで“今”を奪われる感覚を、肌で知っていたはずです。撮る側がレンズ越しに現実を切り取るとき、写そうとすればするほど、そこに必ず“撮る者の意図”が介在します。
そして、その意図が強くなりすぎたとき、現実は撮る者のフィルターを被せられて、本来の、現実の姿が見えにくくなってしまうのです。
拙著『愛の輪郭』のあとがきにも書きましたが、若いころの私は、写真という表現にのぼせ上がっていました。
とくに誰かを撮るとき、「そこに立って」「この光の中にいて」と、私の理想とするイメージの中に、相手を押し込もうとしていました。自分の目に浮かぶ“美しい画”を実現するために、目の前にいる一人の人間の心や体温を、結果的に無視していたのです。
気づいたときには、目の前の人の声や体温、目の奥の光もすら、私の記憶にはほとんど残っていませんでした。
何枚もシャッターを切ったはずなのに、私の“見る”という行為は、結果的にその人に対して向かっていなかった。まさしく三島が言うように「現在を犠牲にした」と言えます。
私はこの世界を、どうしても“自分の見たいように”見てしまいます。
自己の価値観や過去の記憶、期待や恐れが、知らず知らずのうちに視点を歪ませていきます。
「見る」という行為は、それらのバイアスに気づき、それを一枚ずつはがしていくことなのではないかと思います。
私は、撮ることの前に「見ること」を大切にしていきたい。
写真というのは、レンズの前の景色を確実に写すことができるのですが、その実、「見えているようで見えていない」、「残そうとして残せていない」そんな不完全な、とても人間的な部分のあるメディアだと思うのです。
だからこそ、写真には人の心を動かす力があるのだと、私は信じています。
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