環世界

こどものころ、世界は自分の目に映るものが全てであり、それが私の世界でした

 
フリーランスになった頃、「生物から見た世界」という本を手に取りました。若干難しい言葉も並んでいるのですが、分かる範囲で読んでいくだけでも十分に面白く、今でも枕元に置いて、時折読み返します。
 
この本では主に「環世界」という概念が語られています。簡単に言うと、我々人間を含むたくさんの生き物が共生しているこの世界は、生き物によってそれぞれ景色が異なっていて、「動物にはこの世界がどう見えているのか」ではなく、「動物は世界をどう見ているのか」という視点で進んでいきます。

 

たとえば、道端に小さな花が咲いているとして、人間にはそれが赤く可憐な花に見えています。しかし、蜜や花粉を求めるミツバチや蝶には、紫外線を反射する着地用の目印がついたヘリポートのように映っているかもしれない。街を歩いていても、同じ赤い花が目に留まる人と、まったく目に入らない人がいますが、それが良いとか悪いとかではなく、同じ場所に立ち、同じ方向を見ていたとしても、それぞれの目には、異なる景色が広がっている。生き物はそれぞれ独自の感覚を持ち、その感覚を通じた世界を生きている。つまり、人間が見ているこの世界も決して人間だけのものではなく、無数の生き物が持つ世界の一部にすぎない。そして、同じ種類の生き物でも、個体によって見え方は異なるのです。当時私はこの「環世界」という考え方が強く心に残りました。

 

この考えを知ってから、私は「伝える」という行為に対して、より慎重になりました。いくら明確な意図を持たせた作品を提示したとしても、受け取る側はそれぞれが持つ独自の環世界を通じて解釈します。写真には「事実」が写っていますから、見る人はその事実をそれぞれの経験や感覚を通して解釈するため、撮影者の意図とは異なる受け取り方をすることが少なくありません。けれども、「見る人の数だけ広がる解釈」こそが、写真の面白さなのです。だからこそ、私は写真には極力言葉を添えないようにしています。言葉を加えることで、無限に展開するはずだった解釈の自由を狭めてしまう可能性があるからです。
 

 

ここで語れるほど、深く学んでいるわけではありませんが、俳句の、その短い言葉の並びに広がる世界の豊かさには、写真と通じるものを感じています。

俳句も写真と同じように、作者の意図に関係なく、読み手の環世界によって感じ方が変わります。たった十七音の中に、無限の広がりを感じることができるのです。
 

たとえば、誰もが知る芭蕉の句に

 

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

 

があります。この句は静けさを詠んでいるのに、そこには蝉の声が響いています。しかし、「しみ入る」という表現によって、その声は風景に溶け込み、静寂の一部となっています。これらは一般的な解釈ですが、蝉にとってはどうでしょうか。長い長い、土の中での生活からようやく地上に出て、森の中で本能のままに交尾の相手を求めて夢中で鳴き続け、共鳴し合う鳴き声の渦の中で、人間には決して味えないような陶酔と恍惚の境地へと誘われているのかもしれません。

もちろん蝉にとっての世界を知ることはできませんが、想像することで視点は広がります。

 

俳句は、限られた言葉で世界を示します。多くを語らないからこそ生まれる余白が、読み手の環世界に響き、想像を広げていきます。写真もまた、「どこが切り取られたか」で世界の見え方は大きく変わります。フレームの外にある景色や、写真に写る人物の背景にある物語が、見る人の想像や記憶、感覚と重なり合い、それぞれの豊かな解釈を生み出していきます。

 

写真は世界であり、私でもあります。私の数だけ環世界が存在します。撮ることも、見ることも、自分と他者それぞれの環世界を行き来する行為だと言えます。

 

「生物から見た世界」にも書かれていましたが、世界は「そこにあるもの」ではなく、「それをどう見るか」によって決まるのだと思います。

いつもよりほんのすこし視点をずらして、思いもよらなかった解釈や、まだ気づいていなかった美しさを見つけたいですね。