こう言うと語弊があるかもしれませんが、かつての私は、妊娠や出産を経て変わっていく女性の姿を、ただ漠然とした「変化」だと捉えていました。
私の妻も出産を経験し、気づくと胸や腰回りがいくらかふっくらとしたように思います。本人は少し気にしているようですが、私にはむしろ今の姿のほうが魅力的に映ります。神々しいというと少し大袈裟になりますが、数値や理屈で説明できるようなものではなく、人間が持つ動物としての生命力が、なんかこう、歴史や文化なんかと織り混ざって、じわっと滲み出ているような感じがするんです。
以前、出産を控えたある日、妻の実家にお邪魔した帰りに伊勢神宮をお参りしました。杉や楠など、たくさんの樹木が生い茂った森を見上げると、さまざまな枝葉が互いに揺れあい、初夏の陽光をやわらかく遮っていました。そこには、遥か昔から、幾多の人々がこの森に触れてきたであろう時が確かに流れていました。
御垣内に向かい、これまでの無事を報告し、感謝を込めて手を合わせていると、ふわりと優しい風が頬をかすめ、そこに澄みきったあたたかい気配を感じました。こんなこと言うのも何ですが、産後の妻の姿に、それに似たあたたかみを重ねることがあります。
ある昼下がり、自宅でゆっくり過ごしているときに、子守唄を口ずさむ妻の胸の中で、冬陽を浴びながら穏やかに眠っている我が子の姿を見ると、かつて私が、母の背中から無条件に受けていた広大な愛情を思い起こします。そこには、ずっと昔から、世代を超えて受け継がれてきた時間の積層を感じ、すっと安心感が訪れます。そして、妻が私に見せる穏やかな表情は、日頃の張り詰めた心を鎮めてくれます。雲間に揺れる月をぼーっと眺めるうちに、ふと意識がほどけて引き込まれていくときのような、妙に優しく落ち着いた気持ちになれるのです。
谷崎潤一郎が、成熟し出産を経た女性の持つ落ち着きや包容力、身体的な豊かさにある美しさを語っていましたが、恥ずかしながら、私もこの歳になり、ようやくその情感がいかほどのものか、理解に届きつつあります。
ほんの少し前まで、私は生涯ひとりのまま、人生を終えるのだろうと思っていました。覚悟というわけではなく、どちらかと言えば諦めみたいなところでしょうね。そのうち、日々の生活では、先へ進む力がかすれてきている実感はありました。加齢による疲労の蓄積や、一時的に体を壊したこともあって、次第に未来に対して期待することが減っていき、毎日をただなりゆきで過ごしてしまうことが増えたのです。かろうじてその日その日を無責任ながらも生きていこうとはしていたと思いますが、幸いにも母が健在であったため、親より先に逝くわけにはいかないだろうという思いを歯止めに用いながら、先の人生の展開については深く考えないようにしている状態でした。
今、目の前では、新たないのちが日々を力強く織り重ねており、私はその母子の姿をくまなく記録することに没頭しています。独りで過ごしていた頃には、こんな時間と感慨が、私の元に訪れるなどとは、想像こそすれど、実際に起こるとは露ほどにも思ってもいませんでした。こうして、これからも生きていこうと強く思えるのは、自分の子を守り、生命の継承をより確かなものにしようとする動物としての本能からきているのかもしれません。
しかし今、それだけでは説明がつかないほど、目の前に広がる時間と光景には豊かさが溢れています。気付けば、人生の終着点を容易に想像できるような年齢になってしまった私との時間にも意味を見出してくれたうえ、出産という多大な自己犠牲を払いながらも、私にこうした人生の選択と豊かさを与えてくれた妻が、女として、母として、そして人として、どういった姿になっていくのかを私は人生の限り見届け、記録したい。
これから紡がれる物語を余すことなく写し、私たちがここに生きたという確かな証を、この世界のかたすみに残していこうと思います。
その前に私が捨てられなければ、ですけど。