写真はどう嘘をつくか。

写真は、加工技術の進歩により、ゼロから写真を生成することも可能になり、その真実性が揺らぎつつあります。かつて写真が持っていた希少性や神秘性は薄れ、写真の意味自体が変容しています。

 

これは時代の流れであり、良し悪しの問題ではありません。世代によって認識の違いもあります。

 

写真には「事実」が写ります。しかし、それが「真実」とは限りません。

 

例えば、ある報道で、政治家が天を仰ぎ困ったような表情をしている写真があるとします。この写真は、会見の中のほんの一瞬の出来事にすぎません。映像などで会見全体を通して見ると、実際には淡々と進行していたことがほとんどです。しかし、報道において、この一瞬を切り取った写真と、「追い詰められた政治家」といった見出しが組み合わさることで、視覚的な印象が強調され、読者はその写真が示す感情的なニュアンスに引き寄せられます。

この写真自体は「事実」を写していますが、会見全体の文脈を無視して、その一瞬だけを取り出すことで、その写真が伝えるメッセージは「真実」ではなく、特定の解釈や印象に偏ったものになっています。つまり、この写真が「追い詰められた政治家」という印象を与えているとしても、それが会見全体の「真実」を反映しているわけではないということです。このように、写真は事実を伝えながらも、その背景や文脈を省略することで、視覚的な誤解を招くことがあります。

 

写真には、撮る側・見る側の主観、文化的背景や歴史が絡み合い、真実と虚構が混ざり合います。さらに、「加工されない嘘」と「加工された嘘」があり、それぞれに異なる意味を持ちます。

 

「加工されない嘘」は、写った写真そのものに手を加えなくても、見る側や撮る側の解釈や撮影技術によって生じるものです。

 

たとえば、以前SNSで「気持ちよく泳いでいる」というキャプション付きで、犬がプールに入っている写真が投稿されているのを見かけました。私はそれをそのまま「気持ち良さげに泳いでいる」と受け取ったのですが、その写真を見て「溺れている」と解釈してコメントする人が何人かいました。これは見る側の認知バイアスによるものです。とはいえ、本当は溺れていた可能性もありますから、真実はその場にいた人しかわかりません。さらに、前出の政治家のたとえのように、特定の瞬間を切り取ることで本来の文脈が欠落し、実際とは異なる印象が生まれることもあります。これは文脈の欠如による誤解であり、メディアなどが意図的に行う場合にはフレーミング効果と呼ばれます。

また、光の加減やレンズ特性が印象を変え、実際の形状とは異なって見えることもあります。これは撮影技術の問題ですが、結果として実際とは異なる見え方、誤解を生んでしまうのです。

 

こうした誤解は、フォトショップなどの意図的な加工ではなくとも、「加工されていない嘘」として成立してしまいます。

 

一方「加工された嘘」は、意図的に事実を改変する行為です。たとえば、自撮り写真の髪の毛をほんの少し増やすような、今では当たり前の行為はその一例でしょう。

 

もう一つ言うのであれば、たとえば、一般的な露出で写された同じ写真でも、明るく補正されたものと、暗くコントラストを強調したものでは、受け取る印象がまったく異なります。前者は透明感だったり、爽やかで前向きな印象を、後者は不穏さ、重厚感や緊張感を感じさせるかもしれません。

 

これは、編集による「加工された嘘」とも言えますが、同時に、見る側の認知バイアスによって生じる「加工されない嘘」でもあります。かといって、補正されていない元の写真が必ずしも真実かというわけでもないわけです。

 

このように、写真や映像、そしてそれに対する解釈における「バイアス」は非常に複雑で、単純に「真実」や「嘘」を分けることはできません。それぞれの視点から生まれる解釈の幅広さを受け入れることが、写真の奥深さを理解する手助けになります。

 

そういう意味で、写真は常に、その写された瞬間をどう読み解くかに依存しています。撮る側も見る側も、その背景や文脈に意識的である必要があります。良くも悪くも、ある一枚の写真をどう読むかで、その人が築いてきた思考や経験などの、幅や奥行きが如実に浮かび上がるのです。

 

私はまだまだ写真を信じていますが、今後、写真をただの事実として受け止める人は減っていくのではないかと考えています。それに伴って、一枚の写真をどう読み解くかということが、より重要になっていくでしょう。加工技術や生成AIの発展、SNSの影響によって、写真の持つ情報や意味が多層化し、そこにある事実をどう捉えるかが、ますます問われる時代になるのではないかと思います。

 

そういった中で、誰かに強く響く写真を継続的に生み出すには、写っている「事実」の確かさを揺るぎないものにした上で、技術を超えた内面の豊かさをどこまで拡張できるかが鍵になると思います。

写真を撮る側が、その瞬間の事実や背景にどれだけ向き合えるか。そして、その背景にある思想や情緒がどれほど奥行きを持つか。さらに、それをいかに見る側の解釈と上手く掛け合わせることができるか。

それが、写真の力を決定づける重要な要因になるのではないでしょうか。

 

写真は、人間の感性と精神の在りようを如実に浮かび上がらせてしまうメディアです。

 

撮る側、選ぶ側、そして見る側の無意識の思考や価値観まで映し出します。写真が写し取るのは、単なる光景ではなく、それをどう切り取り、どう受け止めるかという人間の内面そのものなのです。だからこそ、撮る側であれ、見る側であれ、概念に縛られず、その瞬間に宿る普遍性をすくい取ることを心がけたいと思うのです。

 

それでも、写真には言葉とは違った力があります。

 

加工技術が発展し、写真の「事実」と「真実」の境界が曖昧になったとしても、写真が人の心を動かす力は残り続けるはずなのです。

 

写真はその歴史の中で、常にある意味での危うさを持ち続けてきましたが、それ以上に面白さや魅力があるのも確かです。

 

だからこそ、撮る側も、見る側も、「写真をどう受け止めるか」を問われる時代なのだと思います。