なぜ「好き」は伝わらないのか。

一歳半になる息子は、いまのところ耳に入った言葉を真似て発音することはありますが、まだ自分の意思を言葉に乗せて伝えるといった段階ではありません。

彼が私の胸元に顔を埋める時、それが親愛の情なのか、単なる睡魔からくるものなのか、大好きな母親が近くにいないから仕方なく預けているのか。

彼の真意が、私には正確には判別がつかない。だから私は、彼の瞳の動きだったり、体全体の表情、呼吸の速さなどの、彼から表出されるものを必死に観察し、そして自分勝手に判別します。私の読みが正しかったのかどうか、それは彼のその後の反応という『結果』で見るしかありません。対一歳児との、言葉という便利な記号が使えない場面では、そうやって相手を測るしかないからです。

翻って言葉のコミュニケーションが可能な大人の世界ではどうでしょう。

たまに、インスタグラムのストーリーズでフォロワーさんとお話をすると、恋愛において言葉に翻弄されている人が実に多いことがわかります。

たとえば「好き」というたった二文字の記号を受け取るだけで「通じ合った」と錯覚し、その甘い言葉の響きひとつによって、自分の体やこころの鍵をあっさりと相手に預けてしまい、結果そのまま関係性が発展せずに終わっていくというような例を何件も聞いてきました。

その言葉として発せられた「好き」も、もちろん嘘とは言い切れません。発した本人は「好き」だと思って言ったんでしょう。恋愛模様に於いては当然それが悪いとも言い切れません。それが例えば、目の前の相手に全人生を賭けるほどに愛おしく、その気持ちを伝えようとした「好き」だったとしても、肉体から湧き上がる利己的な性欲を美しく言い換えた「好き」であっても、発する側と、受け止める側の言葉の解釈、言葉の持つ意味が一致している保証など、どこにもありません。双方の「好き」のニュアンスが一致するケースなんてむしろ稀かもしれない。

ですから言葉を信じすぎると、相手の「好き」に潜んだ真意よりも、自分が持っている言葉の解釈に寄っていってしまうことが往々にしてあります。

人は、恋愛初期の気分が上っていく頃は特に、自分の信じたい、プラスな情報だけを無意識に拾い集めて、逆のマイナスになる情報からは目を逸らそうとする傾向がある。たとえば相手の態度が冷たかったりしても、「これは私のことが好きだから照れているんだ」というような曲解を無意識にし続けて、自分の恋愛の物語を補強しがちになる。

実際、こういう狭視野錯覚と確証バイアスの連鎖が恋愛を面白くしているとも言えますし、あえて相手の発する言葉の渦に呑まれ、その心地よい錯覚の中に身を投じることも、大人の恋愛の醍醐味としてはあったりするとは思います。それはそれで、ひとつの豊かな時間なのかもしれません。

しかし、そんな「狭視野錯覚」の魔法も、いずれ解けていきます。 どれほどピントを外して事実から目を逸らしていても、徐々に現実は容赦なくその隙間から侵食してくる。都合よく補強し続けてきた物語が瓦解し、それまで脳内で都合よく処理してきた相手の欠点が、ある日突然、びっくりするほどの解像度で目の前に立ち現れてしまうのです。

気がつくと気持ちが離れていることに気づきます。

魔法が解けたあとの寒々しい関係の中で、それでもなお相手と向き合えるのか。 そこからが本来の関係性の始まりとも言えるのかもしれませんが、本当に「感じ合っている」関係においては、そこから先、言葉はいい形で減ってくることもあるでしょう。

それは、言葉による関係性の積み重ねの結果というよりも、言葉にする前のもっと動物的な、「察し」のコミュニケーションに近いものだと思います。
まゆが上がって瞳孔が開いたから好きなのかなとか、まばたき増えたからストレス感じてるのかなとか、そういう体から発せられる信号を受信することは、おそらくは説明できずとも、本来感覚的に人間の中にあるものだと思います。

シャッターを切る瞬間の被写体との距離感も、無駄に言葉を重ねるほどにその空間に不純物が混ざり、結果的に写真はその不純物で覆われてしまうというようなことがよくあります。そういう場合の言葉は、届かない場所にいる相手に何かを伝えるための道具でしかない。

お互いの体温が重なるほど近くにいるのなら、言葉を無理に投げずとも、指先に伝わる脈拍や、ふとした瞬間の視線の交差、瞳孔の収縮、体温の上昇のような反応でこそ伝わり、共有できることがたくさんあります。

現状では言葉という記号を使えない息子とのコミュニケーションがそうであるように、共有する時間の中で表出される微かな反応を拾い上げることが、大人同士や男女の恋愛などの人間関係には必要なんだと思う。

息子が立派に言葉を操るようになる前に、言葉がないからこそ実現できている、極めて濃密な関係性を、もう少しだけ大事に観察していたいと思っています。