もう20年近く前の話になりますが、九州へとひとり旅をしたことがありました。
その際、鹿児島の指宿町まで植物の生産者さんを訪ねた帰りに、ふと知覧の特攻平和会館に立ち寄りました。ほんとになんの目的もなしに無計画にふらっと。
この頃は、日本が敗戦を経験しているということくらいはもちろん知っていました。しかし極めて軽薄だった私は、どちらかというと冷やかし半分で立ち寄ってみたというのが正直なところでした。

会館に入ると、まず目に飛び込んできたのが、入り口に展示された大きな絵画でした。
その絵は、「知覧鎮魂の譜」と名付けられ、零戦のような飛行機の機体から特攻隊員の魂を6人の天女が抱き上げ、天に導いているというような姿を描いています。その絵に足が止まりました。眺めていると次第に体の芯のあたりがくわっと熱くなり、ぼろぼろと涙がこぼれだしました。極めて自然な現象でした。まだ私も人前で泣くなんて恥ずかしいと思っていたはずですが、その時は人目など気にすることもなく、またその余裕もなく、涙はしばらく止まりませんでした。しばらくの間そこに立っていたと思います。後にも先にも、絵を見て動けなくなるほど涙を流した経験は、あのとき一度だけです。
中に入ると、特攻隊員が家族に残した手紙や、出撃前の様子の写真などが展示されていました。会場には、年配の方もいましたが、むしろ私と同じか、むしろもっと若い世代の人たちが多く訪れていて、おいおいと啜り泣く声があちらこちらから聞こえてきました。その声は、遠くで鳴り響いているようでありながら、同時に自分の心の奥深くにも届いてくるような、不思議な感覚だったのを覚えています。
おそらく展示してある資料のうち、読めるものは全部読んだと思う。もう夢中でした。
すこし緊張が解けだして、だんだんと自分のことを客観視できる余裕が戻りました。私は次第に自分の不勉強を恥じるような感覚に襲われました。特攻隊員のひとりは1921年生まれで、私のちょうど50歳上です。私が当時30歳だったとして、もしその方がご存命だったとしたら80歳なんですよね。今現在、私の母親は82歳でして、まだまだ元気な方も多い年齢です。日本中、あらゆる場所で街を歩いたら、その隊員の方々と同じ時代を生き抜き、80代を過ごされていた方々がまだまだたくさんいらっしゃったはずでしょう。
たかだか50年、少し上の世代の、同じ日本人のことなのに、そのことを何も知らなかった。
自分と地続きの、すぐそこにあるはずの命の重みに、今の今まで気づけなかった。
それまで私の感受性は一体何をしていたのだろうか。
記憶が正しければ、平和会館に展示されていた資料のうち、一部は教科書に掲載されていたものもあったと思います。それらには授業で目を通していたにも関わらず、今のうのうと自由に暮らしている無知な自分が愚かというか浅はかすぎて、気持ち悪くなった。
会館の中は写真撮影は禁止だった。あの空気は決して写らないし、写らないからこそ内容を身に刻むことができた。だから、撮影を禁止するのは正解だと思う。

平和会館をあとにし、ずきずきした心のまま車を走らせていると、桜島のある鹿児島湾に面した港に辿り着きました。何層かに重なる濡れた絹糸のような雲の間を、夕陽が鈍い光を短く乱反射させながら染め進んだ空には、ほのかに虹がかかっていました。車から降りた時には虹もまだはっきりと確認できましたが、次第に雲間に溶けていきました。この夕陽も、虹も、そのことが神がかってるとかそういうことを言いたいわけではないけれども、これ以来どうも夕陽だったり、こういった美しい景色に対してただ綺麗だと感じるだけでは何かに対して後ろめたい気がするようになってしまった。ただ、平和会館の展示を見て、心を揺さぶられたのは、こんなしょーもない私であっても、どこかに日本人としてのルーツが刻まれていたからだろうと思う。
私も、大変ありがたいことに、先日男児を授かり、当時かけがえのない、愛する息子たちを送り出した親たちの悲痛な心情も、ほんのいくらかは理解できるようになったかもしれません。いつか息子がそれらの歴史を感受できる年齢になったら、今度は親子でまた訪れたいと思います。
改めて、この国を築き、守り続けてきたすべての人々に、心からの感謝を捧げたいと思います。
